第六回

家を継ぐもの 其の三

長良川河畔の戦い

斎藤道三 対 斎藤義龍


斎藤道三(一四九四〜一五五六) 長井新九郎規秀。美濃国稲葉山城主。山城国乙訓郡西岡に生まれ、幼くして仏門に入り、 法蓮坊と称すが、後に還俗して山崎屋と号し灯油を商った。 大永年間(一五二一〜二八)に美濃国に来住し、守護土岐氏の老臣長井氏のもとに出入り した。そこで土岐頼芸の愛顧を受け、長井氏の家老職西村氏を継ぎ、さらに一五三〇年(享 禄三)長居利安を殺害し、長井氏の名跡を継いで小守護代となった。一五三八年(天文七)、 守護代斎藤氏を継ぎ、翌年稲葉山城に拠った。 一五四二年(同十一)土岐頼芸を尾張に追い美濃国を横領するも、一五五六年(弘治二) に長子義龍と長良川で戦い敗死。 斎藤義龍(一五二七〜一五六一) 道三の子として生まれるが、本当は土岐頼芸の子だったらしい。彼は異相の大男で、その器 も凡庸に見えたため父道三から疎まれていた。 一五四八年(天文十七)家督を継ぐが、道三がいずれ最も寵愛していた三男喜平次に跡目を 据え直すつもりであることを察知すると、弟二人を謀殺、挙兵に及ぶ。 一五五六年長良川で道三を討ち稲葉山城主となるが、その五年後に謎の急死を遂げる。 長良川河畔の戦い 長男義龍に家督を譲った道三は、鷺山城に隠退していたが、義龍の実父は土岐頼芸であった ため、道三は機を見て義龍を除き、実施を家督に据えようと考えていた。これを察知した義龍 が先手を打って弟二人を謀殺したため、ついに父子の武力衝突となった。 しかし、以上のことは根拠のない俗説で、事実は家臣団の支持を失って隠退させられた道三 が再起を図って挙兵したものらしい。道三の代には戦国大名らしい施策が何も見られないのに 対し、義龍の代の斎藤氏は次々と新しい政策を打ち出している。これが道三が支持を失った理 由であろう。 一五五六年四月二十日に起きたこの戦いは、道三方二千七百に対し、義龍方一万七千五百と、 圧倒的に義龍が有利であった。道三方に勝機はなく、敗戦の中で長井忠左衛門に組み付かれた 道三は、小真木源太に脛をなで斬りにされて首を取られたうえ、忠左衛門に功名の印として鼻 をそがれたという。尾張の織田信長は舅道三を支援すべく出兵したが、道三敗死を知って途中 で引き返した。 道三の死で、斎藤・織田の同盟は破れ、以後織田信長の美濃侵攻が始まる。

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