黒田官兵衛略年表



黒田官兵衛の簡単な年表です
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年号
西暦
年齢
事項
天文 一五 二一
一五四六

一五五二
一

七
十一月二十九日、姫路城に生まれる。父は姫路城主小寺職隆、母は明石氏。
    幼名万吉。
この頃から、浄土宗の僧・円満について句読を学ぶ。
永禄 二 三 四 五 七 八 一〇 一一 一二
一五五九
一五六〇

一五六一

一五六二

一五六四
一五六五
一五六七

一五六八

一五六九





一四
一五

一六

一七

一九
二〇
二二

二三

二四





十一月二十八日、如水の母病没。姫路の心光寺に葬る。
この頃、文学に心を染め、『三代集』を謄写する。後、円満坊の言葉に感銘
    を受け再び武道に精励する。
この年、主君小寺政職に嘱望され、禄八十石を賜り、近習として御着城に出
    仕する。
この年、父職隆の軍に従い、土豪を討伐する。これを如水の初陣となす。
    (沢蔵坊誅伐)
この頃、元服して通称を官兵衛、諱を孝高とする。
二月六日、祖父重隆城没。享年五十七。心光寺に葬る。
この年、栗山四郎右衛門(当時十五歳)、出仕する。
この年、志方城主櫛橋伊定の女(幸圓)を娶る。父職隆(四十四歳)隠居し
    如水が家督を継ぐ。
この年、佐用郡長ノ坪に遠征し、真島右馬助と戦い、その城を奪い、家臣井
    口猪之助三宅藤十郎を城代として留める。(長の坪の戦い)
十一月三日、嫡男の長政(幼名松寿)が生まれる。
五月、赤松政秀(滝野城主)の来攻を青山に迎撃し、大いに破る。
    (青山・土器山合戦)
この年、母里太兵衛(当年十四歳、幼名万助)が出仕する。
天正 三 四 五 六 七 八 九 一〇 一一 一二 一三 一四 一五 一六 一七 一八 一九
一五七五

一五七六





一五七七



一五七八


一五七九
一五八〇




一五八一




一五八二




一五八三




一五八四



一五八五


一五八六



一五八七





一五八八





一五八九



一五九〇





一五九一



三〇

三一





三二



三三


三四
三五




三六




三七




三八




三九



四〇


四一



四二





四三





四四



四五





四六



七月、小寺政職に説いて、織田氏に帰属することを決し、岐阜に使いする。
    信長より圧切の重宝を賜る。
五月、毛利氏の先鋒、浦宗勝の率いる五千余の大軍を、播州英賀に迎撃し、
    五百の寡兵で大勝する。信長より五月六日付けで感状を賜る。
    (英賀合戦)
六月、信長の近臣富田左近将監を招き、播州の形勢を告ぐ。
九月、嫡子の長政安土城に伴い、人質として信長に差し出す。これを信長
    は秀吉に託し、長浜に抑留せしむ。
十月、秀吉、手兵一万五千余を率いて播州に下る。如水はこれを迎えて姫路
    城を提供する。
十一月、秀吉に従って、佐用城上月城を攻め、これを占領する。
    (佐用・上月両城の戦い)
二月、別所長治三木城にて叛旗を翻し、秀吉とこれへの対策を練る。
十一月、荒木村重有岡城に叛旗を翻し、これの説得に赴くがかえって牢獄
    に投ぜられる。
十月、有岡城が落ち、火焔の中を栗山四郎右衛門に救出される。
二月、小寺政職の出奔に伴い、黒田の姓に復する。
閏三月、信長のもとより嫡男の長政が送還される。
四月、妻鹿城を築き、ここに移る。
六月、秀吉に従い、鳥取城の攻囲に加わる。
九月、晩秋揖東郡などで一万石を賜り、山崎城へ移る。
三月、秀吉の朱印を持って、さらに一万石を加えられ、都合二万石の大名と
    なる。
六月、秀吉に従い、因幡へ遠征する。(鳥取城攻め)
七月、秀吉の命で南海へ航し、阿波・淡路を経由し、長宗我部に備える。
    (第一次四国征伐)
三月、秀吉に従い備中に進発する。
四月二十五日、冠山城を攻め、長政初陣する。
四月二十七日、高松城を囲む。
六月四日、毛利氏と講和し、秀吉に進言して直ちに退却する。
六月十三日、山崎の戦い。
正月、秀吉大坂城築城にあたり、区画を定め、工事を監督する。土地を
    長柄に与えられ、天満屋敷を造る。
四月二十一日、賎ヶ岳の戦い。
十月二日、晩秋揖東郡において千石を加えられる。
    この頃キリスト教に帰依し、洗礼名をドン・シメオンとする。
正月、秀吉の媒酌で嫡子の長政蜂須賀正勝の女を迎える。
三月、蜂須賀正勝とともに、毛利・宇喜多氏の境界画定のために中国にお
    もむく。
七月十八日、境界画定の労を賞せられ、播州宍栗郡を加増される。
五月、秀吉の命により、四国征討の軍監となり、讃岐・阿波に転戦する。
八月二十二日、父の職隆病没。享年六十二。姫路の心光寺に葬る。
十月、小早川隆景吉川元春の上坂を泉州堺に出迎え、大いに歓待する。
三月、従五位下に叙せられ、勘解由次官の官命を賜る。
七月二十五日、九州征伐の軍監を命ぜられ、兵四千を率いて京都を発する。
十月、小早川・吉川・毛利氏とともに小倉城を降し、十二月初旬までに豊前
    の主な諸城を落とす。
四月二日、羽柴秀長に従い根白坂に島津氏を迎撃し大勝する。
七月三日、九州の役の論功行賞で、豊前六郡十八万石に封ぜられる。
九月四日、京都一条通猪熊に邸宅を賜り、また河内丹北群において五百石の
    湯沐料を与えられる。
十月、領内の国人一揆の鎮定にあたり、十二月、毛利氏の援軍を得て、加来福島の二城を抜く。
正月、城井谷の宇都宮鎮房、人質を差し出して帰服する。これにより、領内
    の一揆がことごとく鎮圧される。
二月、肥後一揆後の処置につき熊本に赴き、五月まで政制に従事する。
七月、讃岐の領主、生駒親正の依嘱により、高松築城を進める。
十月、毛利輝元の依嘱により、広島築城を指導する。
この年、中津城が竣功し、長政と共に馬ヶ岳城より移る。
三月二十六日、秀吉の命により、検地のため肥後に赴く。
四月二十日、宇都宮鎮房を中津城にて捕らえ、長政が謀殺する。
五月十五日、家督を長政に譲る、長政は従五位下に叙せられ、甲斐守に任ぜ
    られる。
三月、秀吉に従って小田原の攻囲に参陣する。
同月二十九日、秀吉が北条氏の中山城を攻略する。この時如水の妹婿、一条
    直末が弾丸にあたり討死。
六月二十四日、小田原城に乗り込み、北条氏政氏直に講和を勧める。
九月二十四日、豊臣秀次の好意により、尾張・三河のうちで三千石の湯沐料
    を賜る。
六月十三日、千利休の茶会に出席し、豊臣政権の永世を祝う。
八月、秀吉の命により肥前に下向し、名護屋築城の縄張りを行う。
十月二日、黒田長政、名護屋に赴き、築城工事の初斧の式を挙げる。
文禄 元 二 三 四
一五九二






一五九三



一五九四

一五九五


四七






四八



四九

五〇


四月十二日、外征軍の先鋒は名護屋を発し、朝鮮に向かう。長政兵五千五百
    を率いて従う。
五月二十一日、秀吉の訓令を奉じて京城に入り、外征軍の軍略を議する。こ
    の日、長政、黄海道よりきてこれに加わる。
七月四日、秀吉に書を奉って帰国を請い、八月十五日に許可を得る。
八月、上洛して大政所の死去を弔い、一条猪熊邸に泊まって病を養う。
この頃、関白秀次の乱行を諌める。
二月、浅野長政とともに渡鮮を命ぜられ、在鮮軍に秀吉の節度を授ける。そ
    の後東莱で浅野長政と碁をかこみ、石田三成らの憤怒を買う。
七月、許可なくして帰国し、秀吉の勘気を被る。難を避けるために剃髪し、
    如水円清と号する。
八月十日、秀吉長政の武功を慰み、これに免じて如水の罪を許す。
この年、身に十徳をまとい再び名護屋城の本営に伺候する。
八月二十一日、京都滞在の湯沐料として、晩秋揖東郡で、約二千石の領地を
    賜る。
慶長 元 二 三 四 五 六 七 八 九
一五九六
一五九七




一五九八



一五九九



一六〇〇












一六〇一




一六〇二




一六〇三




一六〇四





五一
五二




五三



五四



五五












五六




五七




五八




五九





この年、多くの京洛の地で細川幽斎と旧交を深める。
二月、在鮮軍主将、小早川秀秋の後見を命ぜられる。
六月、秀秋とともに釜山に上陸し、二十有余の港湾を選定し城塞構築を指導
    する。
十二月二十二日、黒田長政、梁山にて蔚山危急の報に接し、直ちに救援に赴
    く。この時小早川秀秋に書を送り、援軍を依頼する。
正月、明鮮軍八千余を梁山に迎撃し、寡兵をもって撃破。
四月、秀吉の命によって帰国、伏見に上って戦況を報告する。
十一月二十三日、黒田長政加藤清正とともに釜山を発し、帰国する。
十二月、飄然として中津を出て、伏見の新邸に入る。
正月、茶道三ヶ条の掟書を作る。
閏三月七日、長政、加藤清正らと石田三成を追撃する。三成はついに奉行の
    職を退き佐和山に引退する。
十二月、家康より暇を賜り、中津へ帰る。
六月六日、家康保科正直の女を養女とし、長政に配する。このため、長政
    の先妻の蜂須賀氏は離別される。
九月九日、手兵九千余を率い中津を発し、南征を始める。
同月十三日、大友氏と石垣原に戦って勝つ。
同月十五日、立石城を攻め、大友義統を捕獲する。
同月十九日、安岐城を降す。
十月二日、富来城を降す。
同月十四日、小倉城を降す。
同月二十五日、加藤清正とともに柳川城を降す。
十一月十二日、水俣において家康より島津攻撃中止の命を受ける。
同月十五日、中津に凱旋する。
十二月八日、筑前に入国し、同月十一日、小早川氏より名島城を受け取る。
同月三十日、大坂に上り家康と会見する。
正月、長政と議して、諸臣に恩賞を与える。知行千石に至るものが百余人に
    達する。
五月四日、豊国廟に詣で、帷子三、大樽一束を献上する。
この年、福崎の地を福岡と改称し、ここに城郭の建設を始める。後、七年後
    に完成する。
正月十六日、大宰府天満宮で夢想の題で歌を詠む。
八月、京寓に月卿雲客を招き、連歌の会をもよおす。
十一月九日、黒田長政夫人、福岡城において男子(忠之)をもうける。
十二月二十五日、箱崎の松原茶室で、神谷宗湛島井宗室らを招いて茶会を
    もよおす。
正月、大坂に上り高台院北政所)を見舞う。
二月二日、筑前に帰る。
四月二十九日、神谷宗湛の茶会に臨む。
八月、上洛し、猪熊の邸に入る。
十一月、療養のために有馬温泉に行き、ここで越年する。
正月、伏見の藩邸に帰る。
三月二十日、予言通りの辰の刻(午前八時頃)死去。
    法号は龍光院殿如水円清居士。京都の大徳寺に葬り、博多の崇福寺に分
    骨する。
五月四日、僧玄蘇の手で、崇福寺の墓碑銘成る。



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